魂の願望

以前 河合隼雄の本で読んだ話で

昔 とある身分の高い人がある村へ赴いたら
「今日、この道に馬に乗って現われる人が観音様だとお告げがあった」と村人たちに歓迎された。
そしてその身分の高い人はそのままその村で出家をし、村人のいうとおり観音様としてその村にとどまった…(観音様じゃなかったかもしれないけどそういう感じ)

というのがあって
この話の意味を最近考えるようになった。

そしてこれって
本当の自分の願望」というやつなんではなかろうかと気がついた。
その村のために自らを捧げる魂の目的があって生まれてきた人、という意味で
その人は今までそれを知らずに過ごしてきたけど、村人たちに言われて本来の目的に気付かされたのだ。



河合隼雄の本ではこれを日本人の特性としての「場のアイデンティティー」だと説明していた。
なんでも河合氏曰く、周りがそう言うから「そうなのか」と本人が思う。個としてのアイデンティティーの確立があまりないがゆえの文化だと。

周りに言われてそれを信じて突然俗世を捨てる…

確かに、「周りの人に言われたから」というあたりがいかにも日本らしいけど

この話は
自我を捨てて天にサレンダーすると誰にでも起こりえることで
古来から全世界的に伝えられてきた類のものだと思う。

たまたま「啓示」がこの話では「周りの人々」だったけど
もし本人に「準備」ができていたら
どんな形であれ
こういった啓示を受け取ると思う。




私はヒマラヤシッダー瞑想をする前は、
なんとなく一生絵を描いてそれを生業として生きていけたらいいなと思っていた。
特に強烈な願望があるわけではなく、あるとしたら絵のことくらいだった。

だけど、シッダー瞑想を始めて3年過ぎたあたりから
本当の自分の願いは違うところにあると感じ始めた。
そして、なんだったら絵のことはもういいかなと思ったのが6年目に入った去年の秋口だった。

とある事件があって生活が一変するかもしれないという可能性が出たのだった。
自分としてはやはり収入の道が絶たれることが痛手だった。
瞑想を続けるため道場に通いたいが、生活が一変したらそれも難しいかもしれない。
そのとき絵をやめて、運転関係で働こうと思った。

絵を頼りに生きてきたのに
瞑想を続けられて霊性の道をこれからも進めるなら
特に絵にこだわらないという「本当の」願いに触れた出来事だった。



しかしそれはそれでまぁ
ストップがかかったんだけど…

じゃあどうしたらいいんだろう?としばらく天に問いかけて過ごしていた。



天に問いかけるとはーー
全てを「自分」ではなくサレンダーで「神」(最上位の神…そこらへんの祠とかお稲荷さんとか守護霊とかではありません。つまり天=宇宙)に委ねて行う
損得とか利益など…すなわち自我で判断しない。全ての出来事、感情を天に捧げ 問いながら動くと、答えが来る
そうすると「とある村で村人たちがなんか言ってきた」みたいなことが実際に起こる。



そして私の場合はそのお告げは、「こういうふうに天につながる方法を漫画によって周りに知らせる」
だった。
お金になるならないは関係なく、「とにかくやって」ということらしい。


今までの経験から、天の言う通り行動するならお金を含めどうにかやっていけるのはわかっているが
この高次の「声」に従うというのは
普通の生活をしていると勇気のいることだと思う。
けど実は
「捧げて、そして捧げる」ということの深淵を天が見せてくれているというチャンスでもある。
これこそが、「本当の願い」であり「本当のチャンス」だと。



捧げていく(自我を捨てていく)には
レッスンが必要で
例えば私の場合は瞑想を始める前の自分が
一度清水の舞台を飛び降りるつもりで「手放し」たら天が動いたという経験がある。
その経験がなかったら
ヨグマタ先生の言っていることが本当だと
なかなかわからなかっただろうと思う。
その経験があったからヒマラヤシッダー瞑想を始めて、実際に日々、具体的に修行という練習を始めたのだ。

また、瞑想を始める前の私だったら、捧げるという言葉にゾッとしたりもしたけど
まさにそのゾッとしているのが自我だと今ははっきり見える。
自我は「捧げる」ことができない。
コントローラーから手を離せないのが自我(エゴ)。
あるいは、恐怖から身を守るために完全に相手の言うなりになる人がいるけど(カルトや洗脳)
恐怖に支配されているのが不幸だし、これも本来の自分ではない。

ヨグマタ先生はよく「自分が自分のマスターになる」という表現を使われている。本来の自分とは天と同じ素材でできている、神の領域の自分らしいのです。
自我を放棄すると本当の自分になる、ときに真理とはパラドックスのように感じます。



魂の願いは捧げたり瞑想の実践をしていくことで
自我と少し距離ができて「見える」ようになってくる。
そうするとようやく「本来の目的」がわかるようになり
今まで自分が願っていたものは実はとるに足らないことで
「本当の願い」は思いもよらないことだったりするーーー。
自我を捨てることのレッスンはその道をよく知る方に誘導してもらうと破綻しないのです。



サンスクリット語でエゴのことを「アンカーラ」といいます。

もう最後のところに自分という砦があるんですね。

それを外して、本当の自分になるということで、エゴを超える。

エゴが外れて本当の自分になることを、エゴがサレンダー(ゆだねる、明け渡す)するって言うんですけれども。

本当の自分というのは完全であり、静寂であり、愛に満ちて知恵に満ちています。

不滅の存在が、そこにドンと安定してあるわけですね。


ヨグマタ相川圭子公式サイト
【エゴの正体】私たちを支配する心の仕組みとは? より
https://science.ne.jp/blog/8701/


深い内容です。↑リンク先でぜひ読んでみてください。